ワッツ

取締役事業本部長 / 1995年入社

HIROYUKI YAMANO

Interview

キャリアスタートは離島の店長

ワッツの前身会社、㈱久松に入社後、会社が倒産し、その後処理中に前副社長の越智さんから「仕事がないなら来い」と声をかけていただき、ワッツに入社しました。

当時、100円ショップが世間から注目を集める中、当初はディスカウントストアの拡大を目指しており、100円ショップを利益確保の柱の一つとして位置付けていました。

入社後、最初の仕事は長崎県対馬のディスカウントストア店長でした。その後、ディスカウントストアから100円ショップへのシフトに伴い、九州地区の開発、100円ショップ事業のスーパーバイザー、九州地区エリアマネージャーを歴任しました。

入社当初の平岡社長が九州地区に配属され、共に仕事をした時期もあります。当時の100円ショップ業界黎明期には厳しく辛いこともありました。その経験は、私たちの成長にとって貴重な財産となりました。

   

辞めたいと思った日々、その先に見えた未来

大阪の本社へ転勤し、九州地区の担当から全国の店舗を統括する店舗部長に就任しました。部下の人数が一気に増え、責任の重さを痛感しました。毎日辞めたいと思う日々が続いたのも事実です。指示を出すのは私ですが、実際に動くのは各地の従業員。マネジメントの勉強を本格的に始めたのはこの頃からです。そして、100円ショップ以外のノウハウを持つ新たな仲間が加わり、彼らに助言をもらいながら、それらを自身の仕事に組み込むことで、より質の高い成果を生み出すことができるようになりました。特に、当時の評価方法や考え方は、現在も私の仕事の根幹を支えています。

その後、会社の再編により5つのエリア会社が発足し、私はそのうちの「関東ワッツ」の社長として、東京へ赴任することになりました。立場が変わり、想像をはるかに超える責任の重さを伴うものでした。「部下を、部下の家族をちゃんと食わせないといけない」という強い使命感に突き動かされる日々でした。部長時代には感じていなかった、このプレッシャーは、私にとって忘れられない大きな転機となりました。

オースリー統合を機に大阪に戻り、再び全国の店舗統括担当をしましたが、その後商品部に異動し、本社取締役に就任しました。この異動は私にとって大きな転機となりました。バイヤー経験のない私が商品部に配属されたため、最初は戸惑うことも多かったですが、社外の人々と接する機会が増え、視野が大きく広がりました。様々な企画にも積極的に取り組み、店の形態に合わせた品揃えや、100円以外の商品販売など、新たな試みを続けました。これらの取り組みを通して、多角的な視点と問題解決能力を養うことができ、取締役として、より効果的な経営判断を下せるようになったと実感しています。

ワッツの精神は忘れず次のステージへ

30周年を迎え、改めて思うのは、それぞれの時代にワッツの礎を築いてきた人たちがいたからこそ、今の私たちがいるということです。そして、10年後、20年後には、私たちが築いた土台の上で、また新たな世代の人たちが活躍できるような会社にしていかなければなりません。

ワッツはこれまで、「せこい」と言われるほど、コスト意識の高い会社でした。そして、これからもその精神は大切にしていきたいと考えています。これは、お金を全く使わないという意味ではなく、使うべきところにはしっかりと投資すべきです。しかし、工夫次第で乗り越えられることには、安易に費用を掛けないという姿勢が大切です。その代わり、お客さまから「ワッツの商品が良い」と言っていただけるような、高品質な商品開発に力を入れていくべきです。平岡社長が掲げる「ローコストオペレーション・ローコスト出退店」の方針は、まさにそのことを意味しています。

これまで、私たちは「ステークホルダーの満足の向上を目指して仕事をしてください」と伝えてきました。つまり、お客様をはじめ、従業員、取引先など、すべてのステークホルダーに感謝の気持ちを持って仕事に取り組んでほしいということです。私も含め、これからもこの気持ちを忘れずに、仕事に取り組んでいきましょう。

距離を越えて成長する息子との絆

最初の大阪転勤から、20年以上単身赴任を続け、家族と離れて暮らしてきたため、息子は私を「お父さん」とは呼ばず、名前で呼ぶようになりました。母親には何でも話せるようですが、私には少し距離を感じることもあり、寂しい気持ちもありました。

しかし、今では息子も就職し、最近は仕事の話をよくしてくれるようになりました。熱心に小売りについて質問してくる姿に、息子が成長したことを実感します。むしろ、私よりも詳しい知識を持っていることに驚かされることもあります。大阪の住まいにもよく遊びに来てくれるようになり、今はそれが何よりの楽しみです。